読書に求めるもの
去年の12月のある日のこと
駅前にあるエクセシオールでのこと。壁側の1人用ソファー席に座って何か作業をしていた。
そのお店は店内が広々としていて、両壁のあいだには10メートルぐらいの間隔がある。
ちょうど向かいの壁側の席にいる若い女の子がおもむろにバッグからビジネス書サイズの本を取り出し読み出した。
テーブルに肘をついて本を顔の前に持っているのでこちらには背表紙が見える格好だった。離れているのではっきりとは見えないが、なにやら見たことあるような背表紙だなあと思い、少し考えてはっとした。
俺にはその本が、村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」のハードカバー本に見えた。村上春樹を読む若い文学少女。その途端、その子への興味が抑えられなくなり、ちらちらとその子を遠目に見てばかりで作業に集中できなくなった。
しばらく経ち、そろそろ店を出なくてはいけない時間になる。俺は席を立ち、トレーを片すために彼女の近くへと歩いた。彼女はまだ同じ姿勢で本を読んでいる。
そこで本の表紙がはっきり見えた。彼女が読んでいたのは村上春樹ではなかった。それは多崎つくるの巡礼の年に似た表紙の千田琢哉の本だった。
千田琢哉といえば数多くの自己啓発本を書いている著者だ。自己啓発本についてあまり詳しい訳ではないが、正直、ああいった自己啓発本は買ってまで読もうとは思わない。その時なんとなく、少し残念に思った。
本を読んで考えようとするのか、本から教えてもらおうとするのか
別に村上春樹を読んでるからこの人はいいだの自己啓発本は悪いだの言いたい訳じゃない。その時の彼女の事をどうこう言いたい訳でもない。なんとなく本への向き合い方について、その時考えさせられただけだ。
自己啓発本を読む人からは、著者から何かいい考えを教えてもらいたい、という姿勢がなんとなく見てとれる。
小説は架空の物語だ。頭からっぽにして楽しめる面白いものもあるが、物語の構造を考え、自分なりの解釈でそこから現実世界への隠喩、メタファーを読み解けることなんかもあると思う。
本に教えてもらおうという態度は大雑把に捉えれば受動的であり、本の内容を受けて何かを考えようとするのは能動的である。
もっと言えば本以外にも当てはまると思う。
何かを学ぼうとする際に、人から教えを請う態度なのか、能動的に自分で考えようという態度なのか。
SuchmosもSTAY TUNEで歌ってたし。
「Mで待ってるやつ もうGood night」って。
それはちょっと違うか。